「米宇宙開発の父」フォン・ブラウン生誕から100年

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【2012年3月23日 NASA昭和TV

人類を月に送り込んだアポロ計画など「アメリカ宇宙開発の父」として知られるヴェルナー・フォン・ブラウン博士の誕生から、今日3月23日で100年を迎える。ナチス・ドイツのミサイル開発者から、米ソ宇宙競争の中心となった数奇な運命を描いたドキュメンタリー・ドラマが、31日までオンライン配信中だ。


フォン・ブラウン博士

フォン・ブラウン博士。自身が開発したロケットの模型が背後に並ぶ(提供:NASA/MSFC)

「サターンV」ロケットの打ち上げシーン

アポロ計画で使用された「サターンV」ロケットはフォン・ブラウンの業績の代名詞。NASAのサイトでアポロ11号の打ち上げ動画(「Video」をクリック)を見ることができる。クリックで拡大(提供:NASA)

アメリカ宇宙開発の祖、ヴェルナー・フォン・ブラウン博士が誕生してから、今年の3月23日で100年を迎える。

1912年3月23日にドイツ(現ポーランド)のビジスクで生まれたフォン・ブラウンは、ジュール・ヴェルヌやH.G.ウェルズのSF宇宙小説を愛読する少年時代を過ごした。ヘルマン・オーベルトの「惑星空間へのロケット」(1923年)を読んでから、宇宙への憧れはフィクションの世界から現実のものとなり、ロケット力学研究への道を志すようになった。

1934年にはベルリン大学の博士号を取得。オーベルトのもとでドイツ軍の液体ロケット開発に携わるようになった。第二次世界大戦中のロンドン空爆に使用された弾道ミサイルもこの頃に造られたものだ。

だが、兵器よりも宇宙ロケットを開発したいという思いを抱いていたフォン・ブラウンは、ドイツが劣勢になると主要な開発メンバーらと共にアメリカに渡った。

米軍のロケット開発を指導する立場となったフォン・ブラウンは、1955年にアメリカの市民権を獲得。1960年から1970年までマーシャル宇宙飛行センターの初代所長を務めた。アメリカ初の有人飛行(1959年)や、初めて人類を月に送り込んだアポロ計画(1967年〜1972年)など歴史的なプロジェクトが行われたのもこの時代だ。火花を散らす米ソ宇宙開発競争において、まさに米側の中心的役割を果たした人物と言える。

1972年にNASAを退職、1977年6月16日にヴァージニア州で死去した。


フォン・ブラウンと、ソ連の宇宙開発の中心となったセルゲイ・コロリョフに焦点を当て、米ソ宇宙開発競争の内幕をわかりやすく描いたドキュメンタリー・ドラマ番組「宇宙へ 〜冷戦と二人の天才」(2005年)を、動画配信サイト「昭和TV」で視聴することができる。配信は3月31日までなのでお見逃しなく。