天文雑誌 星ナビ 連載中 「新天体発見情報」 中野主一

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2006年11月4日発売「星ナビ」12月号に掲載

超新星 2005lx in IC 221

2006年12月19日は、たまっていた世俗との用件を片付けるために19時45分に自宅を出て、まず郵便局へ出かけました。そしてガソリンを入れ、ホームセンターに行って日用工具、ジャスコで山本速報用のB4紙を購入して、オフィスに出向いてきました。山本速報の編集を行っていると、12月20日04時37分に一通のメイルが埼玉県吉見町の市村義美氏から届きます。そこには「埼玉の市村と申します。今夜、さんかく座にある系外銀河IC 221を撮影した画像の中に、以前にはなかった約17等級の星が写っています。過去に2004年12月16日と2005年2月4日に撮影した画像を調べましたが写っておりません。極限等級は18.5等級です。小惑星は一応調べましたが、発見位置にはいないようです」という報告とThe Skyで目測した超新星状天体(PSN)の出現位置が書かれてありました。しかし、超新星の発見報告としては文章中に発見時刻もなく不十分な内容ですがとりあえず04時55分にこの星の確認を山形、上尾、八ヶ岳に依頼しました。

そして、12月20日05時39分と05時58分に市村氏に『下記の件ですがもう少し情報をください。なお、確認の手配はしました』というメイルを送り、『撮影日と時刻、何枚のフレームでその像を確認したか、移動の無しの確認時間は、望遠鏡(口径)、そのf数、過去画像の極限等級、さらに、銀河核と出現位置の精測位置がない時はPSNの出現位置は銀河核から東か西か、南か北か、その離角(角度の秒で)、名前の読み方と英語でのつづり方』を報告してくれるように伝えました。念のために一応、氏の送付してきた発見画像の銀河中心と超新星状天体の位置を測定することにしました。すると、PSNは銀河中心から西に27".4、南に19".5の位置に出現していることになります。JPEG画像からの測定光度は16.9等でした。

しばらく連絡を待ちましたが、その後の返答がないためにこの夜の業務はここで終了し、06時30分に帰路につきました。その夜の朝(20日)は、外気温が1度まで下がり、寒い朝でした。しかし、下弦の月が空にあるもののその空は綺麗に晴れ渡りすばらしく美しい夜明けの空が広がっていました。今年(2005年)は11月下旬から例年よりずっと寒い日が続いていました。

その日(12月20日)の夜は、クロネコヤマトからの宅急便を受け取るために20時50分にオフィスに出向いてきました。すると、その日の朝の07時29分に串田麗樹さんから「今朝、お送り頂いたIC 221のPSNの件ですが、望遠鏡を立ち上げていなかったので過去の画像やその他の画像との比較調査だけしてみました(セットアップしている間に朝になってしまうので)。多数のDSS画像の周囲の星々との位置関係から比較してみると、どうも市村さんが示しているPSNらしきピンボケの星像は元々ある星で、その北東のやけにピントの良い点像の方はノイズではないでしょうか……。私は、1999年にST-6でピンボケ画像2枚しか比較する元画像がありませんが、今夜、晴れたら撮ってみます。いずれにせよ、この星像が写っている画像が何枚あるのかが重要な判断材料だと思います。また自分が持っている同銀河の元画像と周囲の星の配置と位置関係から、もともとあった星の位置をもう一度正確に確認した方が良いかも知れません。誰かが確認したらお知らせ下さい」と超新星の出現にちょっと否定的なメイルが返ってきていました。そして、08時05分には市村氏から「確認は1時間にわたって5枚撮影しました。低空だったのと、山の上だったので、急いで降りてきました。発見時刻は、添付した画像にあるとおり2006年12月20日01時29分JSTです。ただ、これは4枚目の撮像です。望遠鏡は28-cm f/5.5シュミット・カセグレインです。IC 211(?)とPSNの位置は測定できません。The Skyから目測した中心核とPSNは次のとおりです」という追加の報告、11時34分に門田健一氏から「昨夜は、27時過ぎで作業を終えたため出勤前にメイルを受け取りました。DSS(1989年、1995年)の該当位置には恒星は存在しませんでした。帰宅は深夜近くになりますが今夜確認してみます」。さらに、13時12分には、板垣公一氏から「最近の寒波、凄いですね! 毎日寒いです。PSNですが、最近の山形は大雪でなんともなりません。DSSとの比較では(複数に写っているなら)本物でしょうね」というメイルも届いていました。

しかし、発見報告を作成するにはまだ不十分です。そこで21時すぎに市村氏と電話で話した際、『氏の過去画像の極限等級、スペリング、離角、1枚目の画像の時刻』をたずねました。それらは「18等級、西に25"、南に12"、01時00分撮影」とのことでした。また、氏によると「本日夕刻18時37分にこの星の存在を確認し、その光度は17.0等であった」とのことです。つまり、これで第2夜目の確認も得られたことになります。さらに21時50分に板垣氏より電話があります。氏は「2006年10月30日に行った極限等級が18.5等級の捜索フレームにはこの星の姿が見られない」という調査を連絡してくれました。一応、報告できる材料は整ったので、ここで氏の発見を中央局のダンに報告しました。21時54分のことです。すると、その5分後の21時59分に麗樹さんより「画像が撮れた」と電話が入ります。そして、女史のFAXが22時13分に届きます。そこには「雪の降りそうな雲間からですが何とか確認できました」と銀河中心とPSNの出現位置が書かれてありました。女史の光度は18.0等になっていました。女史の観測を送ろうとした時、何気なしに市村氏からの2通のメイルに目が行きました。すると、氏から最初に届いた発見報告のメイルでは、母銀河は「IC 221」になっています。しかし、この日の朝の質問後に届いたメイルでは、それが「IC 211」になっていることに気づきます。私もそのあとの報告を見てダンへのメイルを書いてしまいました。そのため、メイルのSubjectは「PSN in IC 221」なのに、本文は「IC 211」になっています。『ありゃ、これは困った。どちらが正しいんだ……』と思いながら、麗樹さんも門田氏も板垣氏も市村氏からの最初の発見報告(IC 221)に対応しているはずです。そこで、ダンには、22時19分にこの麗樹さんの確認観測と本文中の訂正を連絡しました。

それですべてが終了したと思っていると、22時25分に板垣氏から「センターの未確認天体のウェッブ・ページにホンの2〜3分前に出ました。でも、発見時刻が遅く光度が18.1等です」という電話が入ります。さらに麗樹さんからも22時30分に「未確認天体のページに出ていますが、時刻と等級が違いますね」と連絡があります。そこで、22時36分にダンに「PSNをウェッブ・ページに入れたようだが、これはどこかから独立観測があったことを意味するのか」というメイルを送りました。夜半を過ぎた12月21日00時01分に門田氏から「帰宅が遅くなりました。薄雲が通過していましたが天候は大丈夫でした。以下の位置に星が存在します。30分間の観測中、移動は見られません。25-cm f/5.0反射+CCDで、極限等級は18.9等、位置はGSC-ACT、光度はTycho-2カタログで測定しました」というメイルが届きます。そこで、氏の確認観測を01時10分にダンに連絡しました。そのメイルには『どうも、いろいろの光度を送ってしまったが、多分このKadotaの測光が正しいのだろう』とつけ加えておきました。

ところで、発見処理の過程で2回ほど電話をしたのですが、連絡の取れなかった市村氏より00時36分に今夜の画像が届きます。そこには「お忙しい中いろいろご尽力いただきありがとうございました。帰宅途中で、板垣さんから電話をいただきました。存在することは確かだと思われるので安心しました。観測のシステムを一新している最中のできごとで、位置や光度の測定など報告がいい加減になって申し訳ありませんでした。1987年の彗星発見以来、久しぶりに胸がどきどきしました。以下に、本日の観測データをつけます」というメイルが届きます。

氏のメイルにあるとおり、市村氏はIchimura彗星(1987 W1)の発見者です。当時、私はハーバード・スミソニアン天体物理研究所に勤務していました。その際、日本での発見がIAUCに公表された場合、その発見者の方に発見が掲載されたIAUCにその編集者のサインをつけ送っていました。市村氏にそれを送ろうとしましたが正しい住所がわかりませんでした。そのために、ちょっとあやふやな住所(埼玉県吉見町……)で、そのサインつきのIAUCを送りました。『市村さん、このIAUC 4494は、無事届きましたでしょうか?』。03時25分にダンから「そうだ。1夜に二人のものから発見報告があった。もうすぐCBETを発行するのでそれを見てくれ」という連絡がありました。そして、彼は04時56分に到着のCBET322でこの超新星の発見を公表します。もう一人の発見者は、英国の超新星ハンターのボレスでした。彼は市村氏より約7時間後の20日08時JST頃にこの超新星を独立発見していました。

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へびつかい座RSの増光

2月13日朝は06時40分に帰宅しました。年末にくらべると空が明るくなるのがずいぶん早くなったように感じます。しかし、この日の朝の外気温は−0.4度まで下がり、車の窓にもべったりと氷がはるほどの寒い朝でした。自宅に戻ると室内の温度も11度まで下がっていました。

さて、その日の夕刻は20時45分にオフィスに出向いてきました。いつもより早い出勤?です。すると、その日の朝、07時40分に稲沢の広沢憲治氏から一通のFAXが届いていました。氏は東亜天文学会の変光星課長です。同07時28分にはメイルも届いていました。そこには「本日早朝、再発新星のへびつかい座RSの増光が国内の2人の観測者、金井清高氏(群馬県伊勢崎市)と成見博秋氏(愛媛県喜多郡)により観測され、通報がありました。緊急を要すると判断し、私の方から天文電報中央局と天文台に連絡しました。彼らの観測によると、この星は2006年2月13日04時54分に4.5等(成見)、05時20分に4.6等、同30分に4.5等、同41分に4.4等(金井)でした。また、この観測は「新発見」ではないので、私から国内外の観測者にも広報していきたいと思いますがいかがでしょうか。何か問題がありましたらご教示いただけると幸いです。どうかよろしくお願いします」という観測報告でした。

『えぇ〜。変光星観測者はこんな寒かった朝も観測しているのか……』と感心しました。もちろん、この星の増光を観測者に連絡することは当然のことです。そこで、20時39分に広沢氏にお礼を込めて『いつもご活躍を拝見しております。下記の件、ご報告いただきありがとうございました。もちろん、多くの方に観測していただきたく存じますのでお手配の方をどうぞよろしくお願い申し上げます。ところで、私、山本速報を編集しています。変光星関係の記事が少なく、いつも気になっております。ぜひいろいろな情報をご連絡いただければ大変ありがたく存じます。何卒よろしくお願い申し上げます。以上、お礼まで』というメイルを返しておきました。広沢氏の報告後、約7時間後の14時24分に到着したCBET 399にはすでにこの情報が公表されていました。それによると、13日13時にはドイツのレンツもこの増光を観測したようです。

すると、それから約2時間後の22時20分に亀山の中村祐二氏から電話があります。話を聞くと、氏も105-mm f/2.8 レンズ+Fuji FinePix S2 Proで行っている新星捜索時のフレーム上にこの変光星の増光を観測したというのです。氏の報告では「2月9日05時半に撮影した露光が20秒のフレーム上では10.5等であったこの星が、13日05時13分に撮影されたフレーム上では4.5等に増光して写っている」とのことでした。中村氏のこの観測は、22時35分にダン(グリーン)に知らせておきました。ダンは、これらの情報を同夜23時17分に到着のIAUC 8671で公表してくれました。それによると、13日17時にはこの変光星はすでに5等級まで減光しているようでした。もちろん、せっかく当会の変光星課から連絡のあった情報ですので3月3日発行の山本速報No.2507で紹介しておきました。

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シュワスマン・ワハマン第3彗星(73P/Schwassmann-Wachmann 3)

2月25日朝は、06時25分に帰宅しました。その夜、23時00分にオフィスに出向いてくると、ちょうどオフィスを離れた頃の06時16分にエリック(クリステンセン)から一通のメイルが届いていました。そこには「昨夜、2月24日20時53分にレモン山の1.5-m反射で73Pを観測中に17.2等の別の核を見つけた。その核には15"のコマと西に20"に広がった扇形の尾が見られる」という報告が書かれてありました。このとき、この彗星にはすでに主核であるC核が2005年10月13日、副核の中でもっとも大きいB核が2006年1月6日から観測されています。したがって、この核は以前のE核か、新たな核ではないかと推測されます。

試しに、B核の1995年と1996年の観測、それから2000年に分裂したと言われているE核の2000年の観測を結んでみました。エリックの送ってきた観測は、特に問題なく連結できます。そこで、2月26日00時38分にエリックに『観測をありがとう。新しい核は私が1月23日に送ったE核の予報から、近日点通過時刻にしてΔT=−0.60日の位置にある。この核は、過去のB核とE核の観測に結ぶことができる。ただし、新しい核が私が1月末に予測していたE核であるかどうかは定かではない。しかし、その非重力効果はそのとき計算されたものよりずっと現実的なものだ。観測用に元期が2006年2月24日の軌道を下につける』という計算結果を送りました。このメイルは、上尾の門田健一氏、モドラのアドリアン(ガラッド)、ロブ(マックノート)にも送っておきました。というのは、エリックのメイルにある1月27日05時19分に、次のE核の新しい予報を門田氏をはじめみんなに送って、その捜索をお願いしてあったのです。

さて、ここで話はこのときより約1ヶ月前の1月にさかのぼります。まだ見つかっていないE核の新しい予報軌道を関係者に送りました。そのメイルには『次のE核の予報(T=2006年6月8.79日)は、セカニナの言うように「2000年に観測されたE核は、1995/1996年のB核から分裂して生じた」として計算した予報です。増光して消滅した彗星のように非重力効果が大変大きくなります。ただし、平均誤差が大きいからかなりいい加減です。また、ΔPが±1.7日もあります。この量はダイレクトに予報Tへ響いてきます。ただ、この核についてはセカニナの推測は正しいようです。ここで、これまでの私の予報と実際の近日点通過Tを比べてみると、C核は予報よりΔT=−0.41日、B核は予報よりΔT=−0.25日と比較的小さな範囲にいました。したがって、仮にE核の予報が2つの核(CとB核)と同じように近日点通過がずれているとすると、T=6月8.5日くらいとなります。これを参考に探してみてください』というものでした。

実は、その2日前の1月25日18時56分に門田氏から届いた「1月6.8日UTごろ、副核を探すためC核から西側、E核(予報)付近までの範囲を約18等までの深さで捜索しましたが、再観測されたB核は運悪くフレームとフレームの間に位置し残念ながら視野外でした。しかしながら、その頃、B核は19等近くでしたので写ってなかったでしょう」という連絡がありました。そこで同夜の21時18分に「結局、グリーンと議論してMPEC B27 (2006)に73P-B核の軌道を公表したのですが、あれは最終的に以前のB核のままです(ただ、グリーンは2000/2001の観測を含めなかった)。そこでダンに送った『もし、B核の過去の観測の選択が正しいならば、私の予報(T=6月8.18日)は、ほとんど正しい観測から計算され、そのΔT=−0.25日だ。したがって、私は今、以前のE核がT=6月9.58日を動いていると強く感じている』というメイルのとおり、以前のE核が私の予報の6月9.58日±0.4日ほどにいると思います。そこを探してみてください。まだ19等級くらいでしょうか……。なお、まだ、今年のB核の観測はE核の観測と結べます。しかし、多分、ICQにあるセカニナの推測のいくつかが間違っているのだろう……というのが我々の結論です』というメイルを送ってあったのです。門田氏からは、22時14分に「E核に関するアドバイス、ありがとうございます。1時間ほどの露出時間で18.5等の集光天体がピックアップできそうですので、バリエーション上を狙ってみます」という返信が届いていました。

さらに門田氏からは、1月27日02時35分に「1月25.7日UT頃、T=6月9.58日±0.4日の範囲を探してみましたが明瞭な彗星像は見つかりませんでした。まだ19等より暗いでしょうか。恒星像と重なっていたのかもしれませんので、続けてもう一夜と思っていたのですが、今夜は風が強く観測は無理そうですので、日を置いてまた狙ってみます」というメイルが届いていました。そこで02時41分に『えぇ〜と、E核は2000年11月28日の上尾での発見観測から12月20日までの短い期間の観測しかありませんよね。多分、急激に明るくなるタイプの核ではないかと思います。あるいは、消滅間際の増光だったのか……。生きている可能性にかけて、ときどき見張ってください』というお願いを送っておきました。すると、03時05分に氏から「2000年には、Tの2ヶ月ほど前に増光したのち、近日点通過前に減光して消えていきましたが、実はまだ健在で昨夜は暗くて写らなかったこと信じて狙ってみます」というメイルがあったために、セカニナの推測に従って計算したE核の予報軌道を最初に紹介した05時19分のメイルで送付したのです。その間にエリックからは、E核の主核からの位置角と離角が欲しいという連絡がありました。そこで、これらを計算して関係者に送付しておきました。

さて、話を2月26日深夜の時点に戻しましょう。エリックから報告のあった核の連結軌道は同夜01時19分にOAA/CSのEMESに入れました。そこには『クリステンセンは、2006年2月24日にレモン山サーベイの1.5-m反射望遠鏡で、主核Cから西の方向、位置角が297゚.2、離角が1゚14'42"の位置に17.2等の別の核を観測しました。氏によると、この天体には西の方向に約20"の扇形に広がった尾が見られたとのことです。この核は、このとき主核CからΔα=−3984"、Δδ=+2041"の位置、C核からのΔTが+1.16日(B核は+0.99日の位置を移動している)を動いていました。また、この核は、OAA/CSで予報したE核の予報軌道(2006年2月7日)から、およそΔα=+2030"、Δδ=−960"の位置、近日点通過時刻の補正量にしてΔT=−0.60日の位置にあることになります。次の軌道は、この核が1995年/1996年に観測されたB核から分離し、2000年に観測されたE核であるとして、これらの観測を結んだものです。OAA/CSにある前の予報軌道より、非重力効果の係数が現実的な値となりました。なお、この核がE核であるという確認には数日の観測が必要となります』というコメントをつけて、仲間に知らせました。

その少し前、01時14分と18分に門田氏から「E核らしき天体の情報、ありがとうございました。B核の視野内でしたので2月9日UTの画像を調べてみたのですが、存在は確認できませんでした。もし、その光度をご存知でしたら教えてください。もう一夜、2月13日UTの観測がありますので調べます」という連絡が届きます。そして、02時18分に「2月13日UTの画像を調べたところ、E核らしき像と同じモーションの天体が写っていましたので報告します。小さく集光した像で、コマの視直径は0'.3角、尾は確認できません。これで計算してみていただけないでしょうか? なお、25-cm f/5.0反射+CCD(ノーフィルター)で、位置はGSC-ACT、光度はTycho-2で測定しました」という連絡とともに3個の観測が届きます。氏のCCD全光度は18.1等でした。もちろん、すぐ00時過ぎに計算した観測ファイルに門田氏の観測を追加して計算しました。問題なく過去の観測と連結できます。もちろん、エリックの観測と1"以内でその動きも一致します。つまり、門田氏の2月13日の天体とエリックの2月24日の天体は同じものです。そこで、これらの結果をダンと門田氏、関係者に連絡しました。02時49分のことです。

そのあと、03時03分に門田氏に『観測をありがとうございました。これで5月には3つの核が見られますね。グリーンへのメイルは届きましたか。2月13日UTの観測はこちらから送らせていただきました。ところで、どうですか。印象的に2000年に見たE核の感じがしますか。そうなら急激に明るくなるはずですね。まだガスが残っておればですが……』というお礼のメイルを送りました。送ってから『見ただけでは、核の同定ができるものでない。変なこと聞いてしまった』と反省していると、氏から03時31分に「連結軌道と報告、ありがとうございます。間違いなく該当の天体でした。E核が無事に戻ってきたようですので大変嬉しいです。しかしながら、残念ながらピックアップには至りませんでした。いただいた軌道から求めた位置を拡大して画像をブリンクすると、小さな像がすぐ見つかりました。B核のすぐ近くと思っていませんでしたし、満月で暗い天体が写っていないと判断して油断していたようです。実際には透明度は良好で、スカイのレベルは高かったですが、18等級まで写っていました。なお、2月9日UTの画像をもう一度調べてみたのですが、該当位置には見つかりませんでした。19等級の恒星が写っていましたので、その後、急に増光した可能性があります。突然に現れたようすは前回の出現を彷彿とさせるものがあります」というメイルが届きます。

門田氏の「2月9日UTの画像には19等級より明るい天体は見られない」という報告は、03時52分にダンに知らせておきました。なお、このメイルにはちょうどその前に星の広場のHALニュースに掲載されていたポイマンスキー彗星(2006 A1)の「熊本の宇都宮章吾氏の2月21日の光度観測、そして高松の中村一雄氏、大垣の米山誠一氏、宇都宮氏の24日の眼視観測では彗星は5.5等級まで明るくなっている」とその眼視光度観測を知らせておきました。そして、06時08分にEMESにも、門田氏の観測を含めた軌道を以上の経過報告をつけて、さらに、それに『この核は2000年のE核であると考えられますが、中央局では新しいG核として公表していますので、観測者を惑わさないようにそれに従います。101P-B(IAUC 8670:本誌2006年5月号、10月号参照)と同様に何とPoorな……』というという余談なことをつけ加えてEMESに入れました。というのは、中央局では、この新しい核をG核として02時48分のMPEC D47 (2006)で公表していたのです。門田氏の観測を報告する1分前に発行された同号には、門田氏の発見前の観測はもちろんありませんでした。しかし、そこには2月20日と22日の発見前の観測がアリゾナのタッカーから、そして、エリックの2月25日の追跡観測が報告されました。

しかし、Poorなのは私でした。2月13日の門田氏の観測、そしてMPEC D47 (2006)にある観測群までは以前のB核の1995年と1996年の観測、それから2000年に分裂したと言われているE核の2000年の観測がうまく連結できました。しかし、その後、彗星が地球に接近し始めると、この核の観測はしだいにその軌道からずれ始め、うまく連結ができなくなりました。そのため、その後のこの核の観測は、B核の1995年、1996年、2000年の観測と結べることを確かめ、中央局のG核としました。『軌道計算は功を焦るとろくなことがない』。G核がE核と同じものであることがはっきりした段階で『それを言えば良かった』と反省しました。なお、本誌2006年6月号の特集記事に紹介したとおり、その後の連結軌道の結果から、このG核は1995年の出現時にはB核の中に含まれていたものが、2001年の回帰時にB核から分離を始め、今回の回帰でG核として見られた。そして、肝心のE核はN核やY核などの別の核に分裂したのではないかと私は考えています。

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