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天文雑誌 星ナビ 連載中 「新天体発見情報」 中野主一

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074(特別編:天文電報中央局のダニエル・グリーン局長が来日)

今年7月13日に、国際天文学連合(IAU;International Astronomical Union)の一機関、天文電報中央局(CBAT;Central Bureau for Astronomical Telegrams)局長ダニエル・グリーン博士が「第41回彗星会議(実行委員長:村上茂樹氏)」の招待を受け、来日しました。その出迎えのために、その日の早朝、成田に向けて出発しました。グリーン氏は、ほぼ定刻の16時に到着ロビーに姿を現しました。氏と会うのは、2年前の2009年の皆既日食の観望を兼ねて、上海で開催された「ICQの会合」以来のことです。氏を車に案内し、そのまま虎ノ門にあるホテルに向かいます。その夜は銀座に出向き夕食をとりました。しかし、次の日は早朝から予定があったので、21時にホテルに戻り、早起きに備えました。

天文電報中央局の現状

CBATは、天体の発見や観測情報をいち早く伝えるために、IAUの設立時(1919年7月)にその一組織として、1900年代初頭まで主に西欧諸国で行われていた業務を統合して設立されました。おもな業務は、新天体(新星、超新星、彗星等)の発見認定、追跡観測、全世界へのそれらの情報配布で、1922年より国際天文学連合回報(IAUC;IAU Circular)を発行してきました。さらに2003年からは、1990年代までのテレックスによる天文電報の代わりとして、CBET(Central Bureau Electronic Telegram)を発行しています。

1980年代までは、その局長は『Director of the Bureau』と呼ばれ、IAUの花形役職でした。現在、IAUCは印刷物とe-Mail、CBETはe-Mailで全世界の天文台、研究者、研究所ライブラリー、アマチュア天文家、報道機関に配布されています。

実は、CBATは、ここ10年ほど運営資金難に陥っています。天体の発見情報やその位置やその軌道が伝わらなければ、その研究もできません。そのため、CBATが伝える情報は、研究者のみならず、天文に興味のある人にとって非常に貴重なものです。しかし、昨今のインターネットの普及などで情報の伝達手段の多様化や研究者のこの種の機関への認識が変化してきたことから、IAU本部からも充分な運営資金が受けられなくなってしまいました。そのため、IAUCやCBETの購読料や一部の米国の研究施設などの援助で情報の発信を続けているのが現状なのです。

またCBATは、1960年代より長い間オフィスが置かれていたハーバード天文台(HCO;Harvard College Observatory)から同大学構内にある地球・惑星科学研究所(EPS;Department of Earth and Planetary Sciences)に、2010年初めに移転しました。新しく着任した天文台長の組織改革、経費削減の一環です。組織改革は、広範囲に及びました。たとえば、毎年、私たちが発行しているコメットハンドブック(HICQ)などを印刷していたスミソニアン部局にあるプリント・ショップも閉鎖されます。同ショップは、研究員の書類の印刷を無料で、しかもその日の内に製本まで行ってくれるとても便利な部局でした。

これらの研究施設の全体は、ハーバード・スミソニアン天体物理学研究所(CfA;Harvard-Smithsonian Center for Astrophysics)と呼ばれています。日本ではスミソニアン天体物理学天文台(SAO)で知られているこの組織ですが、私が同所で働いていた頃は、タクシーに「スミソニアン天文台へ行ってくれ」といっても通じず、「ハーバード天文台へ行ってくれ」というのが一般的でした。ハーバード天文台(正式に台長が置かれたのは1839年)といえば、1600年代中期より世界の彗星の観測・研究をリードしてきた天文台で、過去に多くの著名な彗星研究者、天体力学者を生み出してきました。このオフィスの移転は、単なる引っ越しというだけでなく、その研究を受け継いできたCBATが天文台から消えたことを意味します。

資金援助を求めて

このような状況の中、以前から日本の光学メーカなどにも運営資金の援助をお願いしていました。しかし、日本はアメリカとは企業風土が違うのか、なかなかよい返事がありません。もちろん、今回の来訪に際して、グリーン氏には「現在、日本の経済状態が悪く、また大震災後の時節がら企業からの援助が困難であることを承知してほしい」と伝えてありました。しかし、今回の来日の機会に天文電報中央局(CBAT)の業務内容、活動の紹介だけでもしておきたいというのが局長の希望だったのです。

グリーン氏(左)と筆者 7月14日早朝、ホテルを出て途中の蒲田駅で関係者と落ち合って、キヤノンに出向きました。通訳は、蓮尾隆一氏にお願いしました。内容は、おもにCBATの紹介とこれからの計画についてでした。そして、その午後にいったんホテルに戻り休息しました。夕刻には仙台の小石川正弘氏が到着します。氏には、五藤光学研究所との会合を取りまとめていただきました。その夜、五藤光学研究所社長の五藤信隆氏、グリーン氏、小石川氏とともに夕食を囲み、そのあと、久しぶりにお会いした小石川氏と歓談しました。7月15日昼には、やはり小石川氏の紹介で会合をもっていただいた高橋製作所の直営店スターベースがある秋葉原に出向きました。夕方にはアストロアーツに出向きました。「この数年にわたってHICQの印刷費の援助をいただいているお礼を伝えたい」というグリーン氏の要望からでした。その取材記事はアストロアーツWebニュースで公開されています(2011年7月20日ニュース「新天体発見を支えるダニエル・グリーンさんに聞く」)。

7月16日は彗星会議が行われる野辺山に出向く日です。しかし、その日の朝にもうひとつの会合がありました。早朝にホテルを離れ三鷹に向かいます。この会合は、彗星会議委員長の渡部潤一氏のご紹介で、次期IAU会長に内定している海部宣男博士にお会いし、IAU本部からの運営資金を増額してほしいというお願いをするためです。グリーン氏によるとたいへん有意義な会合だったそうです。

会合が終わった10時過ぎには野辺山に向かいます。3連休のため道路が混んでいましたが、14時前には会場に到着しました。村上茂樹氏の講演「眼視による彗星発見はまだ可能」に続いて氏の講演が始まります。

天文電報中央局の歴史と業務

グリーン氏は1979年からCBATで仕事を始めました。マースデンが編集・発行する「彗星カタログ第3版(1979年発行)」の編集を学生時代に手伝っています。

しかしこの第3版は編集ミスが多く、軌道計算に向いてないと悟ったのか、その後の彼の興味は彗星の物理研究へと移っていきます。そして、1986年のハレー彗星回帰時の観測のためにすでに設立されていたICQ(International Comet Quarterly)の仕事を進めていくことになります。

若き日のグリーン氏 私が彼に会ったのは、1986年7月にケンブリッジで仕事を始めたときのことです。彼はまだ20代後半でした。私のオフィスに設置した日本製のコンピュータでひとつのプログラムを見せました。まだ初期のグラフィックスでしたが、ディスプレイに写った火星の自転を見て、「Oh! マーズ」とわかってくれました。その後、グリーン氏は、1980年代後半からIAUCの編集を任され、前任者のマースデンの引退にともない2000年にその局長になりました。

ここでは、彗星会議でのグリーン氏の講演「The Communication and Transmission of Cometary Data」に沿って天文電報中央局の歴史とその紹介をしていきましょう。以下『 』内が氏の講演です。翻訳は企業との会合でも通訳をしていただいた蓮尾隆一氏によるものです。

天文電報中央局の役割

マースデン博士について語るグリーン氏 『1993年、私はマースデンとウィリアムズとともにハーバード・スミソニアン天体物理学研究所に勤務していました。この3人で天文電報中央局(CBAT)と小惑星センター(MPC)を運営していました。この2つの組織は国際天文学連合(IAU)の組織で、当時はまだバードウェルが非常勤で運営に関わっていました。マースデンがCBAT局長当時の1978年にMPCがマサチューセッツ州ケンブリッジに移転して以来、天文電報中央局と小惑星センターは新彗星の発見を発表するに当たって緊密な連携を取っていました。CBATは新彗星を認定・確認して命名する公的な機関ですし、CBATの局長はIAUの小天体命名委員会(ここは小惑星やその衛星、そして彗星の命名に責任を持つ機関です)の常任委員でもあります。実際、アマチュアの彗星発見に対して毎年与えられるエドガー・ウィルソン賞を決めるのもCBATです。

CBATは天文界で、長い間存在している組織で、来年で130周年になります。天文電報中央局という名前は、新天体の発見を速やかに世界中に伝えるための手段として、電報が用いられていたことを思い出させてくれます。実際に、130年の歴史のうち、最初の110年間は電報が使われていました。最近の20年間で天文学には大きな変化が起き、CBATもインターネットの時代に入っていくことになります』。

電報の時代

『19世紀前半までは、天文学上の発見を速やかに知らせる手段は馬や船便で運ばれる手紙以外にありませんでした。このため、しばしば世界中の観測者による重複した独立発見が起こりました。大西洋を横断する電報が初めて実現したのは1866年のことでした。短時間に変化する天体の情報を速やかに伝達する手段として、電報が使えるのではないかという考えは、すぐに天文学者の間で共有されるようになりました。そして1873年に王室から任命されるグリニッジ天文台の台長とワシントンDCにあるスミソニアン研究所の理事長であったヘンリーは、これら2つの機関の間で毎年いくつかの天文電報を送ることに合意しました。

歴史に残るもっとも明るかった彗星のひとつは1882年9月に白昼でも見えたC/1882 R1で、近日点通過時には太陽表面のすぐ上をかすめた彗星でした。天文学者たちは、このニュースが世界中に広まるスピードの遅さに焦りました。その結果、新しい「天文電報中央局」に関する議論が実行に移され、ドイツではキールにあったAstronimische Nachrichten紙(AN)の編集長がその任に当たることになりました。電報はキールから購読者に送られ、数日から数週間遅れて、より詳しい文面の印刷されたANが郵便で届けられました。

このモデルは大西洋のアメリカ側でもコピーされ、1883年1月からハーバード天文台(HCO)が、西半球向けの天文電報を発行するようになりました。HCOはアメリカにおける天文電報中央局としての役割を果たすようになりました。1895年までにHCOは、電報で伝えられた短いニュースのフォローアップを印刷物で配布するという方法を始めました。そして、この1ページに収まる大きさの回報は、1898年に別の出版物HCOビュレティン(HCOBS)に置き換わり、謄写版あるいは印刷物として購読者に送られるようになりました』。

天文電報中央局の回報 [著者注]1863年に設立されたドイツ天文協会は、1884年に天文電報中央局の前身となる組織を設立しています。ハーバード在籍中にライブラリーの記録を調べると、ドイツのキールから、1894年8月31日に天文電報中央局の回報と名づけられた「Circular der Centralstelle fur Astronomische Telegramme」という、はがきサイズの回報が届いています(資料1:左画像)。編集者はクロイツです。そして、第1号と記された回報は、同じくクロイツの編集で、1897年10月20日に発行されています。内容は、パライン彗星 (C/1897 U1)の軌道とその位置予報などでした。また、その改良軌道が10月22日発行の第2号に掲げられています。

旧天文電報中央局(コペンハーゲン)で発行された最後の回報 この回報は、1916年までに154号まで発行されました。しかし、最終号がこれで終ったのか、ライブラリに届いた回報には、番号が読めないために“?”がついていて定かではありません。この回報は、その7年前の1909年以後に発行されたものから手書きとなっています。おそらく、回報の編集者も第一次世界大戦(1914年〜1918年)の動乱に巻き込まれていったのでしょう。ハーバードのライブラリには、この回報とは別に1914年にコペンハーゲン天文台の天文電報中央局(Zentralstelle fur Astronomische Telegramme)から、同種の回報が届き始めています。1914年11月14日に発行された第1号はキャンプベル彗星 (C/1914 S1)の軌道と予報、編集者はストレームグレンでした。この回報は、第一次世界大戦の最中も引続き発行され、1920年7月発行の41号で終了しました(資料2:右画像)。

回報の時代

『1919年に新たに創設された国際天文学連合は、その中央局をベルギーのウックルにある王立天文台に置きました。初代の局長は、かつての南極探検家ルコアントでした。IAUは1922年にコペンハーゲンにあったストレームグレンの戦時中の臨時オフィスと一つになりました。ストレームグレンは、二つの世界大戦を挟んで1947年に彼が亡くなるまでCBATを適切に運営していました。その後、ハンセン(1890〜1960)がコペンハーゲンで局長になりました。テルノェーはハンセンが亡くなった1960年から1964年の末まで、局長を務めました』。

[著者注]1919年に設立されたIAUは、1922年の第1回総会で、天文電報中央局をコペンハーゲンに置くことを決定します。そして、今日まで発行されている、いわゆるIAU Circularの第1号は、1922年10月22日に発行されました。編集者はストレームグレンで、バーデ彗星(C/1922 U1)の発見速報でした。このIAU Circularと並行して、米国ケンブリッジにあるハーバード天文台のハーバード天文電報局から、同じ様な回報ハーバード・アナウンスメント・カード(HAC)が1926年3月12日から発行され始めます。第1号の編集者はシャプリーで、ブラスウェイツ彗星(C/1926 B1)の位置予報と光度観測でした。

『1964年にハーバード・スミソニアンの天文学者ホイップル(1906-2004)はIAUとの合意の下で、天文電報中央局をHCOに移転させ、運営はハーバード・スミソニアンのスタッフによって行われることになりました。このようにして、1965年1月からジンジャーリッヒがCBAT局長の任に着きました。しかし、それは3年間だけのことで、あとはマースデンに引き継がれました。そして、彼は32年以上にわたってこの地位にありました。2000年にグリーンがCBAT局長職をマースデンから引き継ぎ、2010年にCBATはスミソニアン天体物理学天文台(SAO)から、ハーバード大学の地球・惑星研究所(EPS)に移転しました』。

資料3/HCOで発行された最後のHAC 1675、1676 [著者注]2つの回報の発行からおよそ40年後の1964年にハンブルクで開催されたIAUの第12回総会で、コペンハーゲン天文台にある天文電報中央局をハーバード大学構内にあるスミソニアン天体物理学天文台に移すことが決定されます。HAC 1674には、このことをコペンハーゲン天文電報中央局長の要請と、天体情報のより効率的な伝達手段を構築するため、おりしも行われていた人工衛星観測用のベーカナン・カメラの世界規模のネットワーク構築の必要性のためと記載されています。このため、ハーバード天文電報局から発行されていたHACは、1964年12月31日をもって、その発行を終了し、IAUCに移行することになりました。最後のHAC 1676は1964年12月30日に発行されています(資料3:左画像)。

コペンハーゲンで発行された最後のIAUC 1883 同時期までにコペンハーゲンで発行されたIAUCは1883号(資料4:右画像)までです。このため、ほぼ同じ号数の2つの回報が、このときまで発行されていたことになります。1965年より現在まで45年以上にわたって、天体発見など緊急を要する情報は、ケンブリッジの天文電報中央局から、天文電報で世界各国の天文台に知らされるとともに、IAUC上に公表されるようになりました。しかし、テレックスを使用した天文電報の打電は、次第に時代にそぐわなくなり、1992年末をもって、その役目を終了しました。それ以後は、天体の発見の速報は、e-Mailやワールド・ワイド・ウェブ(WWW)がその代わりを担うことになります。

ダイアルアップの時代

『1990年代の初めから、新発見を伝える手段としての電報は次第にCBATでは使われなくなっていきました。電報でCBATに伝えられた最後の特筆すべき発見は、ボップらによるヘール・ボップ彗星(C/1995 O1)の共同発見を伝えるものでした。1980年代の半ばにはe-Mailやダイヤルアップ通信によるコンピュータ経由での公表が行われるようになっていました。

IRAS・荒貴・オルコック彗星(C/1983 H1)は、長周期彗星としては記録的な地球接近の数日前に発見され、2等級で直径数度のぼんやりした光の塊となって急速に北の空を周極星となって移動していきました。当時、中央局は彗星に関する観測報告を受け、位置観測結果を解析して、軌道要素を求め、予報を作り、広報を行う世界で唯一の公認機関だったので、世界中から問い合わせが殺到しました。問い合わせは主として電話で、CBATの天文電報を購読していない人には容易に手に入らない情報を求めるものでした。天文電報を補完するものとして当時印刷物としてのみ発行されていたIAUCは、作成・印刷し、郵送されて郵便箱に届くまで数日はかかったからです。

C/1983 H1の接近の直後に、マースデンは新しいCBATのサービスを組み立てました。それは、許可を受けた購読者に対し、ダイヤルアップで接続されたコンピュータからCBATのコンピュータにログインし、IAUサーキュラーの電子テキスト版を読めるようにしたほか、関心のある天体の軌道要素や予報にアクセスできるようにしたものです。1980年代を通して、殆どのプロの天文学者はSPANやBITNETを通してe-Mailで連絡を取り合うようになり、学術ネットや政府のネットにアクセスする権利を持たないアマチュア天文家は、モデムや低速のネットを通してのコンピュータアクセスのみ可能な状態でした。

大マゼラン銀河に超新星1987Aが出現した時、天文学者たちは、さらに多くの情報を中央局から得ようとしました。彼らはより受け身となり、ダイヤルアップするのではなく、待っていれば情報がつぎつぎと入ってくるのを望むようになりました。1988年に中央局はe-MailでIAUCの電子版を購読できるようにしました。超新星1987A関連の大騒ぎは、再び中央局を直撃しました。つまり、初めてIAUCが週末に発行されたのです(それまで回報は、週末には発行されていなかった)。より速い通信技術が使えるようになったことで、人々は常に最新の情報を欲するようになったのです』。

インターネットの時代

講演中のグリーン氏 『WWWがプロの天文学者の世界に入ってきたのは、1994年です。ばらばらに分裂したシューメーカー・レビー彗星(D/1993 F2)の木星への衝突は、ウェブ・サイトを使う最初の大規模なテストの機会を天文学者に与えてくれました。CBATは速やかにCBAT自身のサイトを立ち上げ、購読者は、そこでIAUCを読むことができるようにしたほか、新しく発見された他の天体の情報を、モデムでダイヤルアップ接続したコンピュータを通してではなく、オンラインで見ることができるようにしました。もちろん、今ではアマチュア天文家も一般大衆も、ブラウザを通して、またe-Mailにより、インターネット上のそのような情報にアクセスできるようになっています』。

『CBATは短時間に変化する天文現象の広報を行う責任を負っています。IAUCは必要に応じて不定期に発行されるはがきサイズの回報で、印刷物として、また電子版として発行されています。そして、2002年12月20日時点では電子版だけのCBET(中央局電子電報)もしばしば発行されています。もちろん、今はウェブ・サイトに彗星に関する情報源がいくらでもあって、それらは原典(つまり、ウェブ・ページがオリジナルで、そこにしかないデータで構成されているという意味でですが)であるということができます。例えば、CBATとMPCのウェブ・ページには、彗星の発見事情、観測データ、軌道データ、そして予報に関する独自の情報が載っています。いくつかの国家的、または国際的な宇宙開発機関のサイトには彗星への探査機ミッションに関する独自の情報があります。また、多くのサイトに彗星に関する有用な情報が見つかります。特に、CCDカメラで撮影された画像などです。もちろん、ここ日本の方々を含むアマチュア天文家によって維持・運営されたサイトもあります。個々のアマチュア天文家の方々には、引き続き彼らの大変重要で有用なサイトの継続をお願いするとして、一方で、これらの個々の努力のすべてを包括する大きな単一のウェブ・サイトがあれば、どれだけ良いだろうかと今は思っています』。

[著者注]IAU Circularは、これまでに9000号以上が発行されています。ケンブリッジで発行されたIAUCは1884号からですので、この45年ほどで約7000号以上の回報が発行されました。近年に号数が急に増えたように感じるかもしれません。もちろん、速報すべき天文情報が近年多くなったことも事実ですが、1980年代までの回報は、1号の先頭にタイトル・スペースのない複数ページ制が使われていました(資料4)。これが近年ではタイトル・スペースをもった1号・1ページ制ですので、一概に昔と今の発行部数を比較することはできません。

確認観測者との小会議

記念写真 会議の夜20時から、現役で活躍している日本の確認観測者、上尾の門田健一氏、大崎の遊佐徹氏、山形の板垣公一氏、東京の佐藤英貴氏とグリーン氏、そして福岡の山岡均氏と7名で小さな会合を持ちました。グリーン氏がこのあと仕事をしたいということで、45分ほどの顔見せ程度の短い会合となりました。話題は雑多でしたが、一応、確認観測の報告、2011年初から開始されたTOCPサービスの利用、彗星の確認観測について、そしてグリーン氏の1日の業務体制などにまで及びました。

彗星会議第2日目

彗星会議2日目となる7月17日は、私は、会議をサボり、近くに住んでいる串田麗樹さんと久しぶりにお会いすることにしました。前もって連絡しておくと、麗樹さんは、その日の朝9時に会場まで迎えに来てくれました。

会議が終了した後に、山中湖に向かいました。最初は、会議のあと箱根に2泊する予定でしたが、グリーン氏の日程の都合でキャンセルしました。この日も、富士山5合目に登るはずでしたが、前日になって、山梨側のルートが自然保護のため閉鎖になっていることを知り、これをあきらめ芦ノ湖に行くことにしました。しかし、途中で芦ノ湖が大渋滞ということを知り、少しは空いていると思われる山中湖にしました。しかし、ここも大混乱でしたが、グリーン氏には壮大なすそ野をもつ富士山を見せることができました。3連休のため、道路が渋滞する中、22時に成田のホテルに到着しました。翌日、氏は「次は、(2012年8月に第28回IAU総会が開かれる)北京で会おう」と言って、日本を離れていきました。

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