「日本の宇宙開発の祖」糸川博士生誕から100年

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【2012年7月20日 JAXA/ISAS

7月20日といえば1969年にアポロ11号が月面着陸を果たしたことを思い浮かべる人も多いだろうが、日本の宇宙シーンにとっても重要な記念日だ。今年の7月20日、日本のロケット研究開発をリードした故・糸川英夫博士の生誕から100年目を迎える。


カウントダウンを行う糸川博士

秋田県の道川海岸にて、ロケット発射のカウントダウンを行う糸川博士(中央)。クリックで拡大(提供:JAXA)

K-6型ロケット

1958年に道川で打ち上げられたK-6型ロケット。最高高度60kmを達成した。クリックで拡大(提供:JAXA)

探査機「はやぶさ」と小惑星イトカワ

「はやぶさ」が向かった小惑星は、博士にちなんで「イトカワ」と名付けられた(提供:池下章裕)

1912年7月20日に東京都で生まれた糸川博士は、東京帝国大学工学部卒業後、中島飛行機で戦闘機の設計に携わった。1945年の終戦直後には航空機の研究が禁止されていたが、1950年代からは東京大学生産技術研究所で再び研究に着手した。

1955年4月に東京都国分寺市で、超小型の「ペンシルロケット」の水平発射実験を実施。8月には秋田県で「ベビーロケット」の飛翔実験を行った。その後もグレードアップを重ねて1964年の「L(ラムダ)ロケット」では高度1000kmに到達。射場も東側に太平洋が広がる鹿児島県(現・JAXA内之浦宇宙空間観測所)に移されていた。

1967年に東京大学の職を辞したが、1970年2月には日本初の人工衛星「おおすみ」がLロケットで打ち上げられた。またX線天文衛星「はくちょう」やハレー彗星探査機「さきがけ」「すいせい」など、2000年代まで多くの衛星・探査機を打ち上げた「M(ミュー)ロケット」シリーズも、博士が開発に着手していたものがもとになっている。

博士は1999年に長野県で死去。2003年にM-V(ミューファイブ)ロケットで打ち上げられた探査機「はやぶさ」の目標天体は氏にちなんで小惑星「イトカワ」と名付けられ、「はやぶさ」はイトカワの表面物質を持ち帰ることに見事成功、世界初の小惑星からのサンプルリターンという快挙を成し遂げた。

さまざまな記念イベント

糸川博士の生誕100年を記念して、さまざまな催しが行われている。JAXAの宇宙科学研究所(ISAS)のウェブサイトでは記念ページをオープンし、その足跡や貴重な写真を紹介。以前から公開されている「日本の宇宙開発の歴史」ページも読み応えたっぷりで必見だ。このページの第2章では鹿児島県内之浦に発射場を作る際のエピソードが紹介されているが、そのゆかりの地である肝付町では、博士の銅像建立などの記念事業が実施される。

また、ISASの本拠地・JAXA相模原キャンパスに隣接する相模原市立博物館では、企画展示「宇宙科学の先駆者たち〜糸川英夫と小田稔〜」が9月2日まで開催中。X線天文学に大きく貢献した小田氏とともに、ゆかりの品々やエピソードを見ることができる。7月27日(金)〜28日(土)には相模原キャンパスの特別公開が行われるので、併せて足を運ぶとより楽しめるだろう。

長野県上田市でも、博士が晩年を過ごした邸宅や上田創造館での展示・イベントが8月26日まで開催される。