(前編からの続き)
彗星通りと1763年の彗星
エッフェル塔やユネスコ本部、フランス下院の議事堂などが集まるパリ市の第7区に「彗星通り(Rue de la Comète)」はある。全長わずか200mほどで、あまり往来のない裏通りといった雰囲気だ。残念ながら、通りの名を記した標識以外に、この道の由来を記したものは見当たらなかった。果たしてこの通りと「彗星ハンター」メシエとの間にはどのような関係があるのだろうか。
パリ市にある通りの名前を由来とともに網羅した辞典"Dictionnaire historique des rues de Paris"によれば、この通りは1769年に建設が決定して1784年に着工されており、その名前は1763年に見つかって「世間を騒がせた」彗星を記念しているのだという。そして1763年の彗星はメシエが見つけたものただ一つ(C/1763 S1)しか存在しない。
だがちょっと待ってほしい。いくら話題になったとしても、計画が決まった時点から6年も前のできごとをわざわざ通りの名前に選ぶだろうか? まして、着工したのはそのさらに15年後だ。それに、1763年の彗星は本当に「世間を騒がせた」のだろうか。
国際天文学連合(IAU)の小惑星センター(MPC)には「地球に大きく接近した彗星ランキング」が掲載されており、その中に1763年のメシエ彗星も確かにランクインしている(地球への最接近距離は0.0934天文単位、約1397万km)。1996年に天文ファンを驚かせたあの百武彗星(C/1996 B2、0.1018天文単位、約1522万km)よりも近づいている。しかし1763年の彗星は肉眼で観察できる明るさにすら到達していなかったようで、まして当時の人々の間に騒動など起こしたはずもない。
当時の状況をよく調べてみると、事の真相は少しややこしい。本当の由来を知るために、メシエの生涯をもう少し先まで見てみよう。
メシエカタログの成立
1763年9月28日に見つかった彗星はパリ市民に大きな影響を与えなかったかもしれないが、メシエ個人にとっては重要なできごとだった。第一発見より遅れて独立発見した1760年の彗星を除けば、これは彼が生涯で初めて見つけた彗星、つまり「メシエ彗星」の第1号なのだ。年明けすぐの1764年1月3日には再び彗星(C/1764 A1)を発見した。この勢いで、一流科学者の証であるフランス王立科学アカデミーの会員資格ももらえるだろうとメシエは思ったらしい。これはすぐには実現しなかったものの、メシエは大いに名をあげて躍進を続けることになる。
メシエが天体カタログを事実上作り始めたのもこのときである。1764年5月3日にM3を見つけると、10月までの半年間で一気に38個の天体(大半が夏に見える星雲星団)を記録しているのだ。このうち新発見が27個(すでに観測者がいることをメシエが知らなかった9天体と、天の川の一部を天体と見なしたM24、後述のM40を含む)もあるので、メシエの観察眼もすばらしかったと言えるが、夜空のみならず先人が残した観測記録も徹底的に集めて検証したことでさらに数を伸ばしている。
この年の最後にメシエが登録したM40は、彼がカタログを編纂したときの姿勢を物語る上で外すわけにはいかない。
メシエが記録した座標には星雲星団がなく、平凡な二重星が存在するのみなので、M40は「メシエの間違い」とされることが多い。しかしメシエ自身がカタログの第一版(1771年)に記した説明によれば、「(1764年)10月24日から25日の夜にかけて、『星図』第二版(ヨハネス・ヘベリウス著)でおおぐま座のしっぽの上にあると記録されている星雲を探した」「その位置には明るさが等しく非常に接近した2つの星がある」「(焦点距離)6フィートという普通の望遠鏡で分離するのは難しい」「ヘベリウスがこの二重星を星雲と見間違えた、と想定するのが道理だ」という。
この時点でメシエは「彗星と紛らわしい天体を自分のためにまとめる」こと以上に「あらゆる星雲星団を網羅する」という目的意識を持って天体を探していたことがうかがわれる。ただの二重星とわかっていながらM40を追加したのは、「とにかく数を増やしたかった」とか「天体の数を40というキリのいい数字にしたかった」と説明されることがあるが、メシエ自身がそうは語っていないので真相はわからない。しかし好意的に解釈するならば、先人が積み重ねてきた観測記録を引き継いだ上で決定版を作りたいという意識がM40に表れているのではないだろうか。
また、あくまで自分の目で見ることも重視しており、ハレーが南大西洋のセントヘレナ島に遠征したときにケンタウルス座のオメガ星団(NGC 5139)を観測した記録は見ているはずだが、北緯50度近くのパリでは観測できないのでメシエカタログには掲載されていない。メシエ天体で一番南に位置するのは、さそり座のしっぽ付近のM7だが、これもパリでは南中時の高度が6度くらいしかない。今日のパリでは建物のせいでアンタレスすら滅多に拝むことができず、地平線付近は常に光害で白んでいることを考えると、18世紀のパリが中心地ですら暗かったことを実感できる。
国王が認めた彗星の狩人
海軍天文台での業務を続ける中で、メシエは着々と新発見を重ねる。1765年初頭に冬の夜空でM41を独立発見、1766年3月には彗星(C/1766 E1)を見つけると、4月にはもう1つ(D/1766 G1)を独立発見した。1767年には3か月半かけてバルト海での測量と観測器機のテストに携わっているが、いかにも海軍らしい仕事をしたのはこれが最初で最後である。
1769年8月には、90度を超える長い尾を伸ばす大彗星となったC/1769 P1を発見した。1760年代に見つかった8個の彗星のうち、メシエは実に5個を単独発見し2個を独立発見している。星雲や星団も含め、この時期の新天体発見業界はメシエの独擅場だったのだ。1770年6月にダメ押しのようにもう1つ彗星(D/1770 L1)を発見し、2週間後に長年の悲願だったフランス王立科学アカデミーの正会員に選出された。このときルイ15世が彼に"Le furet des comètes"(直訳すると「彗星のフェレット」、すなわちウサギの巣に潜り込むフェレットのように、隠された彗星を巧みに見つける狩人)というあだ名をつけたという逸話がある。
40歳になっていたメシエは、11月に同じロレーヌ地方出身で15年来の知人だったマリー=フランソワーズ・ド・ベルモシャンと結婚する。そして翌年2月、メシエカタログの第一版を科学アカデミーで発表。このころがメシエの人生のピークだったかもしれない。
なお、カタログを公表するにあたって、オリオン座大星雲のM42とM43、プレセペ星団M44、プレアデス星団M45といった誰もが知っている天体も追加しているが、これは彼のカタログがもはや「彗星と紛らわしい天体一覧」ではなく「星雲・星団カタログ」である以上、入れなければならないと判断したのだろう。一方、カタログを発表した3日後にM46からM49まで4つの天体を観測している。たまたまだったのか、それとも最初から第2版を出すつもりだったのかは不明だが、メシエカタログは拡張を続けていく。
1772年3月15日、長男のアントワーヌ=シャルルが生まれたが、不幸にして出産後の経過が思わしくなかった妻マリー=フランソワーズが23日に他界、息子も26日に早世してしまった。詳しい経緯は不明だが、メシエの悲しみはいかばかりであっただろう。それでも観測は粛々と続け、息子を亡くした夜には3月8日に見つかっていたビエラ彗星(3D/1772 E1)を観測し、その過程で4月3日にM50を発見している。しかしさすがに色々と思うことがあったのだろう、数か月後には長期休暇をとってメシエ自身と妻の故郷であるロレーヌに滞在している。
フランスを襲った「彗星の恐怖」
さて、もう一度「彗星通り」に話を戻そう。通りの建設が決定した1769年は、メシエが大彗星を発見した年と一致する。従って、一部の観測者しか見なかった1763年の彗星よりも、1769年の彗星の方が由来になった可能性が高い。しかしそれにしても「世間を騒がせた」というほどだったかは怪しい。
一番可能性が高いのが、1773年のできごとだ。正確に言うと、これは彗星の出現ではない。メシエの同僚である天文学者ラランドがこの年5月に『地球に接近しうる彗星に関する考察(Réflexions sur les comètes qui peuvent approcher de la terre)』と題した論文を発表したところ、「彗星が地球に衝突して世界が滅びる」というデマが広がってパリを初め各地で大騒ぎになったのだ。
同論文はただちに危険が迫っていると述べたわけではなく、一般論として彗星が地球に衝突する確率を計算しているだけでありその確率も非常に低いと言っているので、パニックが起こったのはラランドにとって想定外だったであろう。もっとも、彗星が「赤熱した鉄の2000倍も熱く密度が地球の2万8000倍ある」という間違った前提を元に、衝突あるいは大接近によって破局的な被害が発生することを示唆したのは言い過ぎだったかもしれない。なお同論文には地球に接近した彗星の実例がいくつか挙げられており、その中で「特に近かった」とされているのが1763年と1764年のメシエ彗星である。そんなわけで、この騒動ひいては「彗星通り」にメシエは直接関わってはいないかもしれないが、全く無縁とも言えないだろう。何といっても当時メシエはフランス、いや世界最高の彗星ハンターだったのだから。
(後編に続く)