今回は前回に引き続き、ニュージーランド(以下NZ)の永住権の取得について、そしてその後の出来事に触れてみたいと思います。(今回は内容的に沿った写真がなく、関係のない画像ですがお許しを…)
私はNZの永住権を1996年に取得し、今日に至るわけですが、永住権申請に必要な物を手元に準備するだけで骨が折れた記憶があります。前回の連載にも書きましたが、個人の学歴や職歴、資格などが審査の対象で、その内容を証明するものが必要になってきます。もちろん英語での提出です。日本語で書かれているものには、公認の翻訳者等に依頼して訳文を作成してもらいましょう。
次のステップとして無犯罪証明書の提出です。これはこちらの警察に出向き指紋押捺します。それが日本の警察に送られて審査されます。何も悪いことをしていなければ、普通は大丈夫です(笑)。そうそう、かなり高額な受診料を払って健康診断を受けなければなりません。その前に大事なこととして、ポイントが100点以上あるかないかを調べましょう(前回を参照)。
このように事前の準備にかなりの苦労が伴います。しかしその苦労は、取得後の希望に満ちた展望にかき消されるに違いありません。私も最初は落ち着いて天体撮影どころではなく、永住権申請前はもちろん、取得後もしばらくは夜空にカメラを向ける余裕がありませんでした。おまけに1994年には生涯の伴侶となる女性に出会い、人生はまさに薔薇色、夜空を見上げることを完全に忘れていました。彼女に夢中だったのでしょう。
そしてあっという間に時は過ぎ、労働許可証の期限切れがせまってきました。そこでたった2年でNZの何がわかるわけでもないのに、この国に住みたいと思い、労働許可証の延長ではなく、永住権の申請を決意します。1995年春頃のことでした。申請方法は前回お話した通りです。
しかし、申請から回答が返って来るまでの時間がとても長く、そうこうしている間に私の2年間の労働許可証が切れてしまいました。しかし、すでに永住権の申請を終えていたので、移民局が3ヶ月の特別労働許可証を出してくれました。もちろん申請料は徴収されましたが…。
そして、3ヶ月の期限が切れる直前、移民局から決断が下されました。結果はポイントが足りないので永住権を出せないという裁定でした。当時は現在の点数制度とはかなり違っており、弁護士と私の自己採点では点数は足りていて、どうして却下されたのかを問う「アピール」という別料金メニューに突入しようとしていた矢先、大幅な永住権システムの変更がありました。
そう、英語試験の導入です。そこで弁護士と相談の結果、「アピール料金を出して粘るより、君の英語力ならIELTS試験もパスできるはずなので、再申請しよう!」ということになりました。
お蔭様で新システムではポイントに余裕があり、アピールするより申請料は高かったものの、作戦の変更が功を奏し無事に永住権取得と相成りました。しかもその1ヶ月前には無事結婚式も挙げ、ダブルの喜びを手に入れたのでした。
しかし、式の準備に追われていたのか、それとも奥さんになる人に首ったけだったのか、同年3月に明るくなった百武第二彗星の追っかけをしなかったのは今でも悔やまれます。一度だけ真っ暗闇で彗星を見上げた記憶がありますが、その偉大な姿は今でもまぶたに焼きついています。なのに撮影機材を日本に置き去りにして来てしまった(仕事のための訪NZでしたから)ために、あの尾を撮影できず後悔しています。その次のヘール・ボップ彗星もです。まあ南半球では明るい時に見えませんでしたけど…。
また、お嫁さんにも永住権を取ってもらおうと思い、映画のような面接にも臨みました。確かアメリカの映画だったと思いますが、「グリーンカード」というのがあります。主演女優のアンディ・マクダウェルが、あるフランス人男性のアメリカ永住権取得をサポートするために偽装結婚を計画するお話です。そして、その面接で質問されるであろうお互いの好みだとか、趣味、使っている化粧品などを勉強していくのです。お話の結末は映画を観ていただくとして、その映画と同じような内容の面接を移民局の係員から夫婦別々で受けました。
その時の質問に、私は間違えた回答をしました。係員からは2度に渡って「本当???」と聞き返される始末。勘違いに気づいた私が正しい回答をして、移民局の係員も胸を撫で下ろし、まさに間一髪でした。
あと、永住権取得後に注意しなければならない事があります。それは取得後2年間、1年の半分以上をNZ国内で暮らさなければ、永住権を失うという法律があることです。現在も同じだそうです。365日のうち、183日以上をNZ国内で過ごし税金を払わなければならないのです。その後は、例え何年留守にしても永住権が失効することはないそうです。この2年が過ぎて初めて肩の荷が下りたと言うか、楽になったというか、本当の意味での安堵がやってきました。1998年4月のことでした。
夫婦そろって、無事永住権を取得。そして、撮影機材を日本から持参し、たいへん美しい夜空の撮影が始められると思っていた矢先、コウノトリさんが意地悪を始めました。子宝に恵まれなかったのです。気分転換にNZから海外旅行に毎年出かけ、趣味のF-1レースを撮るために重さ5kgの500ミリレンズを運んだ年もありました。それでもコウノトリさんはそっぽを向いたまま。夜空を見上げている場合ではありませんでした。最終的にはNZの不妊治療に助けを求め、子宝に恵まれるまでは夜空と決別する決意をしました。まずは赤ちゃん。お互いに30代になっていましたので。
そして不妊治療の後、日本では全く知られていない手術を受けました。ドクターも「これで解放されるわよ。6ヶ月以内に赤ちゃんができると思います」とのお言葉。全くその通りで、基礎体温がはっきりと出るようになり、無事3ヵ月後に妊娠判明。翌年にはコウノトリさんが男の子を運んできてくれました。そして妊娠8ヶ月目の2001年3月31日の夜、慌てて仕事から帰宅した私が興奮して宇宙語(?)を話し始め、お嫁さんも理解不明。全天を彩るオーロラが現れたのです。
撮影の準備をして、身重のお嫁さんを連れて裏庭に出ました。空を見上げると、そこには七色の光が乱舞していました。天頂にはコロナ型オーロラも見え、カーテンが動く様子も綺麗に見えました。
子供が生まれるまで45日ほどあったのですが、それまで休止していた夜空撮影の願望がひしひしと沸きあがってきました。しかし、生まれてきた子供を抱いていると、これまた撮影どころではなくなっていました。いけませんね、目の前に満天の星があるし、子供は可愛いし(笑)。
フレア爆発による全天オーロラの撮影以外は、子供に首ったけで、夜空はお預けでした。1988年に最初の一歩を踏み出して以来、南天の撮影ができずにいたのです。もったいない。
結局赤道儀を含む撮影機材を手元に揃えたのはつい最近、2005年です。17年間も何をしていたのかと思います。子供も夜は寝てくれるようになり、お父さんは出撃回数が増えてきました。合わせて、私の営むスターウオッチングツアーにもお客様から予約をいただける様になりましたので、これからも皆様に南天の星空を紹介し続けていく所存です。小規模オーロラでも山の上に出撃して撮影をすることもできるようになり、また同時に空振りも増えてきました。太陽活動は終息期ですしね。オーロラ出現待ちの間は、真っ暗な中でゴルフの素振りをする余裕も出てきました(笑)。前回の連載で永住権が取れたら、もれなく満天の星が付いてくる…と書きましたが、私の場合はそこにたどり着くまで時間がかかりました。
天の南極を探し出す時に目印となるはちぶんぎ座の台形が、肉眼ですぐに探し出せるほど空気が澄んでいるクイーンズタウン。度々お隣の国オーストラリアのクイーンズランドと間違える方がいますが、「女王陛下が住むに相応しいほど美しい街」です。これからもお見知りおきを。
閑散期に入りましたので、私はスターウオッチングツアーを若手に任せて、しばらく休暇をとります。次回のタイトルは「邪魔なオーロラ」。オーロラが邪魔なんて贅沢な話ですね。