発見から“一周”年、海王星の歴史を振り返る
【2011年7月12日 廣瀬匠さん】
太陽系の第8惑星・海王星が1846年9月23日に発見されて以来、地球は太陽を約165周した。一方、地球の30倍遠い軌道をゆっくりと回る海王星は、今月12日にようやく発見から1周を達成する。これを記念して、海王星が発見された経緯や、現在までに海王星を巡り起こったできごとを振り返ってみよう。
■1846年9月23日、海王星発見
海王星発見の歴史は、1つ内側の天王星が発見された1781年まで遡れると言っても過言ではない。当時、惑星の太陽からの距離が水星から順に簡単な数列で表せるという「ティティウス・ボーデの法則」が注目を集めていて、天王星もこれに一致するため、次の惑星が存在すると信じる人は少なくなかった。実際には、これは偶然の産物に過ぎない。のちに海王星はこの法則に合わないこともわかったが、第8惑星探しの大きなきっかけとなったのは確かだ。
一方、表面的な数字をいじるのではなく、ニュートンが見つけた万有引力の法則に基づいて惑星の軌道を計算する「天体力学」の手法が、1800年前後に完成している。ところが、天王星の観測データが蓄積するにつれて、この理論から予想される位置と実際の位置がずれていることがわかってきた。1820年代には、天王星の外に未知の惑星があり、引力で軌道に影響を与えているという考えが登場しているが、軌道を計算する者は現れていない。
最初に挑戦したのは大学を卒業したばかりの若手研究者、イギリスのジョン・アダムズである。彼は1843年から計算を始めており、翌年には王室天文官のジョージ・エアリーに確認を依頼する手紙を送っている。不幸にも両者の間での連絡がうまくいかず、なかなか観測が始まらなかったが、その間も計算を続けたアダムズは海王星の位置を約1度の誤差で言い当てていた。
一方、これとは独立にフランスの天文学者ユルバン・ルヴェリエも計算に取り組んでおり、1846年に新惑星の予測位置をまとめた。この動きを知ったイギリス側はようやく捜索を始めたものの失敗に終わっている。ルヴェリエは8月に計算結果をフランス科学アカデミーで公表し、すぐにドイツのベルリン天文台のヨハン・ガレに観測依頼を送った。9月23日に手紙を受け取ったガレは、その晩に新惑星を発見したのである。
アダムズとルヴェリエの明暗を分けた要因については様々な議論があるが、ここではその一つとして「星図の有無」を挙げておきたい。アダムズが予測した方向を観測したイギリスの天文台には、望遠鏡があってもそれに見合う星図がなく、何日かおきに観測して動く星を探すしかなかった。観測者は明らかに海王星と特定できる星を記録に残しているのだが、追観測をする前に悪天候に阻まれて発見の栄誉を逃したのだ。これに対してドイツのガレは、彼の学生ハインリヒ・ダレストからの提案を受けて星図を用い、望遠鏡の視野に入った星と比べるだけで、一晩で発見を成し遂げている。海王星の発見はよく「天体力学の勝利」や「理論の勝利」と言われるが、観測の蓄積と記録の勝利でもあったのだ。
惑星の名前はルヴェリエの提案に基づき Neptune(ローマ神話の海の神ネプチューンにちなむ)とされ、中国と日本でもこれを意訳した「海王星」が使われている。発見の経緯を巡り英仏の天文学者の間では火花が飛ぶこともあったが、アダムズ自身は誰を責めることもなく研究活動を続け、やがて天文学者として大成した。現在、彼はルヴェリエやガレとともに海王星の発見者として認められている。
■1846年10月10日、衛星トリトンの発見
新惑星の発見からわずか17日後に、イギリスのウィリアム・ラッセルが衛星を発見した。ラッセルは衛星の名前を提案しておらず、フランスのフラマリオンが1880年ごろに提案した「トリトン」が正式名となった。トリトンはギリシャ神話に登場する海の神でポセイドン(ローマ神話のネプチューンに相当)の息子である。ただ、それさえも使われることは少なく、実に100年以上、「海王星の衛星」だけで通じた。
■1930年、冥王星の発見
海王星が見つかってからも新惑星を探そうという試みは続き、1930年2月18日にアメリカのクライド・トンボーによって冥王星が見つかった。天体力学による計算で見つかった海王星とは違って、何枚もの写真の中から力業で見つけたという側面が強い。その大きさは海王星の軌道にはっきりした影響を与えるほどは大きくなく、軌道もいびつであったため、第9惑星ではあるがイレギュラーな存在と見なされていた。
■1940年、新元素にネプツニウムと命名
1789年に新種の元素が見つかり、当時見つかったばかりの新惑星・天王星(Uranus)にちなんで「ウラン」と名付けられた。ウランは天然に十分存在する元素ではもっとも重く、さらに重い元素は合成せねば得られない。1940年、ウランに中性子を衝突させることで初めてウランより重い元素が合成され、海王星にちなみ「ネプツニウム」と名付けられた。
その後ネプツニウムよりさらに重い元素プルトニウムも見つかっているが、これも惑星の冥王星(Pluto)が由来だ。しかし、時は第二次世界大戦の最中。やがて、これらの元素は核の時代を象徴することになってしまった。
■1949年、衛星ネレイドの発見
オランダ系アメリカ人のジェラルド・カイパーは、1949年5月1日に海王星の第2衛星ネレイドを発見した。トリトンから実に103年ぶりの新衛星だ。極端な楕円軌道を描いているため、外から飛来して海王星に捕獲された可能性が指摘されている。ところで、第1衛星のトリトンも海王星の自転と逆行する不思議な軌道を描いていて、やはり捕獲された天体だと思われる。これらの起源とされるのがエッジワース・カイパー・ベルトだ。その名前はネレイドの発見者でもあるカイパーとアイルランドの天文学者ケネス・エッジワースにちなむ。
2人の天文学者は彗星の軌道を研究した結果、1950年前後に相次いで「冥王星の外側」に無数の小天体が分布していると発表した。現在の知識に基づけば、これは正確には「海王星の外側」とするべきなのだが、いずれにせよ、海王星と冥王星の存在以外はよくわかっていなかった太陽系の外縁に天文学者が挑戦し始めたのがこの時期である。
■1979年、再び最果ての惑星に
冥王星の軌道は楕円を描くため、248年の公転中に20年間だけ海王星軌道の内側に入り込む時期がある。最近ではそれが1979年から1999年であった。このとき海王星はつかの間だけ太陽系の最遠天体に返り咲くこととなったが、この20年間で太陽系のイメージが大きく変わることになる。
■1989年、ボイジャー2号の接近
NASAが1977年に打ち上げた惑星探査機ボイジャー2号は木星と土星を経由し、1989年8月に海王星と衛星トリトンの近くを通過した。今のところ、海王星へ接近した探査機はこの前にも後にもない。
ボイジャー2号の代表的な成果は、海王星の成分を詳しく解き明かしたことだ。表面が青いのは、赤い光を吸収するメタンが豊富に存在するからである。水も豊富に存在していて、中心付近ではメタンとともに大きな氷の核を形成していることが予測された。これは質量の大半がガスで占められる木星や土星と対照的であり、その違いは太陽系外惑星の研究が始まってから重要な意味を持つことになる。
このほか、6つの新衛星と数本の環が見つかっている。環はそれ以前から存在が予測されていて、地球からの観測も試みられていたが、成果は不十分だった。
■1992年、海王星以遠天体の発見
1992年、アメリカのデビッド・ジューイットとジェーン・ルーが見つけた1992 QB1は、冥王星のさらに外側を回る直径百数十kmの天体である。この時点で海王星は冥王星とともに「最果ての天体」ではなくなったことになるが、1992 QB1の発見が持つ意味はそれにとどまらない。理論上の存在だったエッジワース・カイパー・ベルトの天体が現実に観測できる時代に突入したのだ。
その後、年を追うごとに海王星の外に小天体が見つかり、1999年には冥王星もエッジワース・カイパー・ベルトの一員に過ぎないのではないかという見方が強まっていた。なお、これらの天体の総称として「海王星以遠天体」がよく使われたが、現在では「太陽系外縁天体」と呼ぶのが正式である。
ところで、太陽系外縁天体の中には公転周期が海王星と簡単な整数比になっているものが多く、何らかの相互作用があったことが示唆される。これを説明できる仮説として2000年代半ばから「海王星マイグレーション(移動)理論」が研究者の間で一定の支持を集めている。それによれば、海王星は天王星とともに木星や土星に近い位置で誕生したが、後に弾き出されて現在の位置まで移動したという。このときもっと内側まで広がっていた小天体たちは、海王星にエッジワース・カイパー・ベルトの領域へ押しやられたらしい。
■2003年、5つの新衛星発見とハッブル宇宙望遠鏡の活躍
2002年から2003年に海王星を周回する直径数十kmの衛星が相次いで見つかり、2003年に発表された。これで海王星の衛星数は13となり、現在に至る。
衛星の発見は地上の大型望遠鏡で実現したが、このころハッブル宇宙望遠鏡(1990年に打ち上げ、軌道投入)が海王星の観測で活躍したことにも触れておきたい。解像度でこそボイジャー2号に及ばないものの、継続的な観測で雲の動きや季節変動をとらえることに成功した。
■2004年、太陽系の外の「海王星」たち
1995年、ペガスス座の51番星に惑星があると発表され、公に認知された。太陽系外の惑星、第一号である。しかし誰一人として惑星の姿をとらえたわけではない。恒星のスペクトルを分析すると、それがわずかにぶれていることがわかり、さらに計算するとその「ぶれ」が未知の惑星によるものだと確認できたのである。ある意味で海王星発見時の経緯と似通った点があるが、もはや直接見えなくても「発見」と言えるほどに天文学の精度は高まったのだ。
さて、系外惑星といえば、最初のうちは質量が木星(地球の317倍)を上回る巨大なものばかりが見つかっていたが、2004年に質量が地球の23倍という「海王星型系外惑星」が見つかった。海王星の質量は地球の17倍、表面はガスの層だが、中心には氷と岩石の核があり、まさに木星と地球の中間段階と言える。その後も捜索は精密になり、2009年には地球の1.9倍しかない惑星が見つかるまでに至った。これだけ軽いと岩石惑星だと推定されるので「スーパーアース(大型の地球)」と呼ばれるが、「海王星タイプ」と「地球タイプ」がどこで線引きされるのかも今後の課題だ。
■2006年、再び最遠の惑星へ
21世紀に入って大型の太陽系外縁天体が相次いで見つかり、惑星の定義を見直す動きが進んだ。2005年には冥王星より大きい天体エリスが見つかり、一時は海王星、冥王星に次ぐ第10惑星の誕生かとまで騒がれた。
結局、2006年8月の国際天文学連合総会で天文学者たちが下した判断は「惑星は海王星までの8個」というものだった。再び太陽系最後の惑星となった海王星だが、それは決して太陽系の最果てではない。むしろ、エッジワース・カイパー・ベルトなどの新しく、多くの謎が眠る太陽系のフロンティアへの入り口と言って良いだろう。
■2011年、一周年を迎えて
海王星にとってはたったの1周だが、地球と地球の天文学者にとっては長い165年だった。最後に、ここまでの主な出来事を年表にまとめて振り返ろう。165年間を海王星の「1年(365日)」に換算した「日付」も参考までに記した。
日付 | 海王星換算 | できごと |
---|---|---|
1846年9月23日 | 1月1日0時 | 海王星の発見 |
1846年10月10日 | 1月1日午前2時半 | 最初の衛星発見 |
1880年 | 3月17日 | フラマリオンが海王星の第1衛星を初めて「トリトン」と呼ぶ |
1906年 | 5月13日 | この頃、米国のパーシバル・ローエルが第9惑星の捜索を開始 |
1930年2月18日 | 7月4日 | ローエルの遺志を継いだトンボーが冥王星を発見 |
1940年 | 7月27日 | 元素ネプツニウムの発見 |
1943年 | 8月3日 | エッジワース、のちに「エッジワース・カイパー・ベルト」と呼ばれる海王星以遠天体の領域を予言 |
1949年5月1日 | 8月16日 | カイパーが海王星の第2衛星ネレイドを発見 |
1979年1月 | 10月21日 | 海王星と冥王星の太陽からの距離が逆転、海王星が最遠の惑星に |
1989年8月24日 | 11月13日 | 探査機ボイジャー2号が海王星に最接近、これに先立ち6つの衛星と環を発見 |
1992年8月30日 | 11月20日 | 冥王星以来初めての海王星以遠天体、1992 QB1発見 |
1999年2月 | 12月4日 | 冥王星が再び海王星より遠くなる |
2002年8月14日 | 12月12日 | 海王星に4つの新衛星が見つかる |
2003年8月29日 | 12月14日 | 海王星の13個目の衛星が見つかる |
2004年12月 | 12月17日 | 海王星に近い質量を持つ初めての太陽系外惑星、GJ 436b発見 |
2006年8月24日 | 12月21日 | 惑星の定義が決定、冥王星は含まれず、海王星が最遠の惑星に |
2011年7月12日 | 12月31日 | 海王星、発見から一周 |
注:海王星の「一周」の定義は、「太陽から見て、海王星が同じ位置に戻ってきた(日心黄道座標(J2000)の黄経が一致した)こと」としています。